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(伊勢)桑名城へ [東海]

4月5日から8日に行った一人旅の最後の訪問地は、三重県桑名市にある桑名城です。
(2か月経過して、ようやく旅の日記が終わります)

桑名城が本格的に築かれたのは慶長6年(1601年)に本多忠勝が城主となってからで、揖斐川、長良川、
そして木曽川の河口に近く伊勢国の玄関口として重要視された地に、4重6階の天守を含む櫓数51、
多聞46という立派な城でした。ただ、天守は元禄14年(1701年)に街の大火で焼失し、その後再建
されず、また、明治になって建物は取り壊され、石垣四日市港の埋め立てに使用されて破壊され
たため、現在、城跡には堀とわずかな石垣が残るのみです。
そうした中で、市内の了順寺の山門は、桑名城の城門を移築したものと言われています。
こちらが了順寺の山門です。
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タグ: 城址
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(伊勢)神戸城へ [東海]

亀山城の次は、三重県鈴鹿市にある神戸(かんべ)城です。

神戸城は、神戸具盛が天文年間に築いた城です。天正8年(1580年)には織田軍の滝川一益の侵攻に
和睦し養子に受け入れた信長の3男神戸信孝が城を改修。今も残る天守台の上に5重6階の天守を
建てました。
その後、天領となっていた期間をはさんで、城主が度々変わったのち、享保17年(1732年)に本多
忠統が城主となり、維新まで本多氏の居城でした。
本丸跡には、今も、野面積みの天守台や土塁、堀が残っています。

写真は、本丸跡です。手前に城址碑と桜、奥に天守台が見えます。
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(伊勢)亀山城へ [東海]

伊賀上野城の次に向かったのが、三重県亀山市にある亀山城です。

亀山城は、それまであった戦国期の古城を基にして、岡本良勝により天正18年(1590年)に築かれ
ました。本丸、二の丸、三の丸からなり、天守も築かれましたが、その天守は、江戸時代の初めに、
丹波亀山城の天守を解体するように命じられた堀尾忠晴の間違いで取り壊されてしまったそうです。
寛永13年(1636年)、本多俊次が城主となると、亀山城の大改修に着手。東出丸や西三の丸、西の丸
が整備され、その形状が明治時代まで続きました。その際に、天守を失った天守台には、今も現存
する多聞櫓が建てられました。
現在、城址には、多聞櫓と石垣、外堀、二の丸帯曲輪、武家屋敷といった遺構が残っています。
写真は、本丸跡に建つ城址碑です。
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タグ: 亀山城
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(日本100名城)伊賀上野城へ [東海]

一人旅の最終日の朝、三重県伊賀市にある伊賀上野城に行ってみました。

伊賀上野城は、天正13年(1585年)、大和郡山から移った筒井定次が古館跡に築いたのが始まりです。
定次は三層の天守を建て、北側に表門を構えました。
その後、慶長13年(1608年)に、徳川家康は定次を改易。大阪城への備えが必要だったことから、築城の
名手、藤堂高虎が伊予今治から入封します。高虎は伊賀上野城を西に拡張し、豊臣方に備えて高さ
約30メートルの石垣や水堀などを築きました。また五層の大天守も建設しましたが、完成間近の
慶長17年(1612年)9月に暴風により倒壊。その後、大阪の陣での豊臣氏の滅亡と幕府の城普請禁止策
とにより、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のままとなり、伊賀一国の城と
して藤堂氏の城代家老による執政体制が幕末まで続きました。
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霧に包まれる岐阜城へ(日本100名城) [東海]

(ようやく)一人旅の三日目は岐阜城からスタートです。

岐阜城は標高約330mの金華山の山頂にあり、日本の城郭の中での有数の高さにあります。
かつては稲葉山城と呼ばれ、当初の築城は鎌倉時代の建仁年間(1201~1204年)という、非常に歴史のある城の
1つです。戦国時代には斎藤道三の居城でもありましたが、永禄10年(1567年)に織田信長がこの城を攻略
し、この地方一帯を平定するとともに、地名を「岐阜」と改称。城も岐阜城とし、山頂に居住屋敷、
山麓に居館を設けるなど、天下統一への足掛かりに相応しい城へと改修します。

天正3年(1575年)に信長が安土城に移ってからは、織田信忠(信長の長男)、神戸信孝(信長の3男)、
池田元助(豊臣秀吉の家臣、池田輝政の兄)、池田輝政(後の姫路城主)、豊臣秀勝、織田秀信(信長の孫)、
と城主が変遷。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍についた、かつての城主池田輝政などに攻められ
開城。翌慶長6年(1601年)に徳川家康が廃城を決め、天守や櫓等が加納城に移されてしまいました。

現在、昭和31年に再建された天守が山頂にあるほか、ごく一部ながら石垣が残っています。
また、麓の織田信長の居館跡は巨石列や石垣が残っていて、建物のほかに庭園や池などもある、
かなり大規模なものだったようです。今も発掘調査が続けられています。

それでは、岐阜城に向かいましょう。下の写真は麓にある岐阜公園です。ここでも桜は満開でした。
ただ、残念ながら前夜からの雨がまだ止んでませんでした。
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タグ:稲葉山
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桜の咲く犬山城へ(日本100名城) [東海]

今回は、先月行った犬山城についての記事です。

犬山城は、天守が現存するお城の1つで、その天守は国宝に指定されています。創建時期は天正年間
(1573~1592年)、慶長5~6年(1600~1601年)など諸説ありますが、現存する12の天守の中で最も古いと
言われています。
当初は天文6年(1537年)、織田信長の叔父の織田信康によって築かれ、その後江戸時代初期にかけて何人も城主が
入れ替わりますが、元和3年(1617年)尾張藩付家老の成瀬正成が城主となって以降は、成瀬氏が代々城主を受け
継ぎ、維新を迎えました。
現在、犬山城は公益財団法人の所有となっていますが、平成16年までは成瀬家が個人所有している珍しい城と
しても有名でした。
明治初期に櫓や門の大部分は取り壊されたため、城址には天守以外の建物は現存していませんが、近隣のお寺に
幾つかの門が移築され現存しています。
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(日本100名城)岡崎城へ [東海]

吉田城の次に向かったのが、日本100名城の1つであり、徳川家康の出生地としても知られる岡崎城です。

岡崎城は15世紀半ばに、西郷稠頼によって築かれました。大永4年(1524年)には松平清康(家康の祖父)が岡崎まで
勢力を拡大するも、清康没後は三河は今川氏の領域下となりました。
永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、長く今川氏の隷下にあった徳川家康が岡崎に帰城し、
それ以後はこの城を拠点に三河平定に全力を傾注しました。
天正18年(1590年)、家康の関東移封とともに、現代につながる都市設計を行ったことや、関ヶ原の合戦後に逃亡中
の石田三成を捕縛したことなどで知られる田中吉政が入封し、大規模な改修を図りました。関ヶ原の合戦後に吉政
が筑後に転封となってからは、本多氏、水野氏、松平氏と、譜代・親藩大名が城主となり明治を迎えます。
元和3年(1617年)に建てられた天守は明治初期に取り壊されましたが、昭和34年に付櫓、井戸櫓とともに天守が
再建されたほか、水堀や空堀、石垣などが往時の姿を今にとどめています。写真は天守と付櫓(左)です。
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桜の咲く吉田城へ(続日本100名城) [東海]

4月6日、続日本100名城が発表されたちょうど日、その続日本100名城の1つに選定された吉田城に行って
きました。

この地には当初、永正2年(1505年)に、今川氏親の命により、牧野古白が現在の豊城神社のある金柑丸のあたりに
築城しました。
その後はたびたび、城主が変わりましたが、天正18年(1590年)に池田輝政が城主となると、城下町を含めて
大改修に着手
しました。ただし、完成する前に、輝政が関ヶ原の合戦の翌年慶長6年(1601年)に姫路に転封になり、それ以降は
小大名が藩主だったため、未完成のまま明治時代を迎えることになります。

現在では、二の丸と三の丸の西側部分は小学校や市役所、南側や東側は公園や美術館となっていますが、本丸と
豊川沿いの部分は石垣や堀、土塁など、旧状がよく残っていて、本丸の西北には復興された鉄櫓があります。
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(日本100名城)長篠城へ [東海]

掛川城のあとは、愛知県新城市にある長篠城へ行ってきました。現存する建物はなく、遺構が多いとは言えま
せんが、日本100名城の一つでもあり、また、誰もが知ってる長篠の戦いの前哨戦として、武田軍と織田・徳川
連合軍との間で激しい攻防があった場所でもあり、一度行ってみたかったんです。

長篠城は永正5年(1508年)、菅沼元成が築きました。菅沼氏は元亀2年(1571年)、武田氏の支配下に入りますが、
元亀4年(1573年)、武田信玄が死亡した直後の間隙をついて、徳川家康が長篠城を奪取し、奥平信昌が城主となります。
そして、武田軍の反攻に備えて大改築しましたが、天正3年(1575年)に武田勝頼に攻められ落城寸前に至りました。
結局、織田・徳川連合軍が長篠の戦いに勝ちましたが、損傷がひどく、天正4年に廃城となりました。
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桜の咲く掛川城へ(日本100名城) [東海]

 4月5日、大井川鉄道を撮った後、掛川市にある掛川城への向かいました。

 掛川城は、元々は、今川氏の重臣朝比奈泰凞によって築かれました。その後、徳川家康の重臣石川家成が城主
となり、豊臣秀吉の全国平定後によって家康が関東に移された後は、山内一豊が城主となります。この山内一豊
が、掛川城を近世城郭へ大改築。城下町全体を堀で囲み、本丸に三重天守を建てるなどしました。
一豊が関ヶ原の合戦後に高知に転封となって以降は、家康の異父弟の松平定勝や、本多氏、井伊氏、太田道灌の
子孫の太田氏など譜代大名城主となり、維新を迎えます。
 
 現在、掛川城には、二の丸御殿、太鼓櫓、大手番所のほか、近隣の寺に移築された蕗の門や台所御門などが
現存するほか、天守閣、大手門、四足門などが復元されています。下の写真は、平成7年に復元された大手門です。
本来の位置は復元された場所から50メートルほど南にあったそうです。
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