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(日本100名城)伊賀上野城へ [東海]

一人旅の最終日の朝、三重県伊賀市にある伊賀上野城に行ってみました。

伊賀上野城は、天正13年(1585年)、大和郡山から移った筒井定次が古館跡に築いたのが始まりです。
定次は三層の天守を建て、北側に表門を構えました。
その後、慶長13年(1608年)に、徳川家康は定次を改易。大阪城への備えが必要だったことから、築城の
名手、藤堂高虎が伊予今治から入封します。高虎は伊賀上野城を西に拡張し、豊臣方に備えて高さ
約30メートルの石垣や水堀などを築きました。また五層の大天守も建設しましたが、完成間近の
慶長17年(1612年)9月に暴風により倒壊。その後、大阪の陣での豊臣氏の滅亡と幕府の城普請禁止策
とにより、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のままとなり、伊賀一国の城と
して藤堂氏の城代家老による執政体制が幕末まで続きました。
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伊賀鉄道の忍者列車 他 [鉄道]

一人旅の四日目、4月8日に、三重県の伊賀上野~伊賀神戸間を走る伊賀鉄道の200系「忍者列車」を
撮ってきました。伊賀鉄道の200系は東急の1000系を改造した車両で、2009年から「忍者列車」
ラッピングで運転しています。青色、ピンク色、緑色の3種類があり、それぞれ異なるラッピングが
施されています。
こちらは、伊賀上野駅で撮った、ピンク色の「忍者列車」です。
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長浜城と長浜駅舎 [関西]

 小谷城を後にし、次に向かったのが長浜城です。

 長浜城は、小谷城主浅井氏との戦いの功労により、浅井氏の領地を与えられ小谷城主となった羽柴秀吉
が、琵琶湖に近い今浜(現在の長浜)の方が便が良いとして築いた城です。天正3年秋頃、城が完成
すると地名を今浜から長浜に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、同時に城下町も小谷から長浜に
移しました。
 天正10年(1582年)、織田信長亡きあと、長浜城は一時的に柴田勝家の甥の勝豊が城主となりますが、
その後すぐに秀吉は勝豊を降伏させて長浜城を取り戻しました。
 秀吉が大阪城に移ってからは、山内一豊、内藤信成、内藤信正が城主となりましたが、豊臣氏の
滅亡後は取り壊され、石垣など大半の資材が彦根城の建築に利用されました。
 昭和58年(1983年)には、市民の寄付金などで模擬天守が建設されています。

 その長浜城ですが、桜はまだ満開には早かったようですが、桃(だと思いますが...)がきれいに咲き
ほこっていました。下の写真は、(たぶん)桃の花と模擬天守です。
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浅井三姉妹誕生の地、小谷城へ(日本100名城) [関西]

岐阜城のあとは、一気に滋賀県に移動し、長浜市にある小谷城に行ってきました。

この時に感じたことの1つが、岐阜市の中心から高速道路までの遠さ。名神高速の最寄りのインター
まで岐阜城からだと19km、市役所からだと17kmくらいあります。全国の主要都市、あるいは県庁所在地
の中で、高速道路までの遠さでは1位なのでは、と思うくらい不便でしたね。

まぁ、それはそれとして、小谷城は、長浜市の小谷山にあり、戦国時代に浅井(あざい)家が3代に
わたって居城としていました。築城は大永4年(1524年)頃で、浅井亨政によります。
中世三大山城のひとつと言われていて、三代城主の浅井長政、織田信長の妹で戦国一の美女といわれた
お市の方、その間に生まれた3人の娘・浅井三姉妹(茶々、初、江)ゆかりの城です。

朝倉義景・浅井長政の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が戦った姉川の戦いを経て、4年あまりに
渡って織田軍から攻められ、天正元年(1573年)に落城し浅井氏は滅亡。小谷城は羽柴秀吉に与えられ
ましたが、
秀吉が琵琶湖畔に長浜城を築いて移ったため、そのまま廃城になりました。

日本100名城のガイドブックには、城下から本丸まで徒歩で40分との記載があり、雨の翌日に山城を
40分も歩くのは無理かも、と思っていましたが、番所跡付近までは車で行けました。番所跡からであれば
本丸まで15分くらい歩けば到着できました。これが、番所跡です。
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霧に包まれる岐阜城へ(日本100名城) [東海]

(ようやく)一人旅の三日目は岐阜城からスタートです。

岐阜城は標高約330mの金華山の山頂にあり、日本の城郭の中での有数の高さにあります。
かつては稲葉山城と呼ばれ、当初の築城は鎌倉時代の建仁年間(1201~1204年)という、非常に歴史のある城の
1つです。戦国時代には斎藤道三の居城でもありましたが、永禄10年(1567年)に織田信長がこの城を攻略
し、この地方一帯を平定するとともに、地名を「岐阜」と改称。城も岐阜城とし、山頂に居住屋敷、
山麓に居館を設けるなど、天下統一への足掛かりに相応しい城へと改修します。

天正3年(1575年)に信長が安土城に移ってからは、織田信忠(信長の長男)、神戸信孝(信長の3男)、
池田元助(豊臣秀吉の家臣、池田輝政の兄)、池田輝政(後の姫路城主)、豊臣秀勝、織田秀信(信長の孫)、
と城主が変遷。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍についた、かつての城主池田輝政などに攻められ
開城。翌慶長6年(1601年)に徳川家康が廃城を決め、天守や櫓等が加納城に移されてしまいました。

現在、昭和31年に再建された天守が山頂にあるほか、ごく一部ながら石垣が残っています。
また、麓の織田信長の居館跡は巨石列や石垣が残っていて、建物のほかに庭園や池などもある、
かなり大規模なものだったようです。今も発掘調査が続けられています。

それでは、岐阜城に向かいましょう。下の写真は麓にある岐阜公園です。ここでも桜は満開でした。
ただ、残念ながら前夜からの雨がまだ止んでませんでした。
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タグ:稲葉山
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桜の咲く犬山城へ(日本100名城) [東海]

今回は、先月行った犬山城についての記事です。

犬山城は、天守が現存するお城の1つで、その天守は国宝に指定されています。創建時期は天正年間
(1573~1592年)、慶長5~6年(1600~1601年)など諸説ありますが、現存する12の天守の中で最も古いと
言われています。
当初は天文6年(1537年)、織田信長の叔父の織田信康によって築かれ、その後江戸時代初期にかけて何人も城主が
入れ替わりますが、元和3年(1617年)尾張藩付家老の成瀬正成が城主となって以降は、成瀬氏が代々城主を受け
継ぎ、維新を迎えました。
現在、犬山城は公益財団法人の所有となっていますが、平成16年までは成瀬家が個人所有している珍しい城と
しても有名でした。
明治初期に櫓や門の大部分は取り壊されたため、城址には天守以外の建物は現存していませんが、近隣のお寺に
幾つかの門が移築され現存しています。
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さようなら、都電荒川線7000形 [鉄道]

今回は岡崎城の次に向かった犬山城を記事にするつもりでしたが、予定を変更して、7000形の最後の2両、
昨日が最終日の7001号車と、6月に引退する7022号車を、昨日(4月30日)に撮ってきましたので、その様子を
記事にしてみました。

都電荒川線の7000形は昭和30年~31年に製造された旧7000形の台車などを再利用し、ワンマン化に
向けて、昭和52年に新造車体に更新された車両で、最後の2両が残っていましたが、昨日で1両が
引退し、6月上旬に残る1両も引退してしまうようです。
いかにも(昔の)都電らしい姿・塗装の2両の引退、非常に残念なことですね。
そのことを、あおたけさんの記事で思い出し、その最後の姿をカメラに収めようということで、
慌てて、昨日、行ってきました。

最初に向かったのが、梶原停留場付近。当初は王子駅前~栄町にいたのですが、東京都交通局
のHP上にある「都電運行情報」を見て、三ノ輪橋寄りに少し移動しました。そこで、まずやって
来たのが、ツーマン時代の赤帯塗装の7001号車。自分にとっては、これぞ都電、です。
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(日本100名城)岡崎城へ [東海]

吉田城の次に向かったのが、日本100名城の1つであり、徳川家康の出生地としても知られる岡崎城です。

岡崎城は15世紀半ばに、西郷稠頼によって築かれました。大永4年(1524年)には松平清康(家康の祖父)が岡崎まで
勢力を拡大するも、清康没後は三河は今川氏の領域下となりました。
永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、長く今川氏の隷下にあった徳川家康が岡崎に帰城し、
それ以後はこの城を拠点に三河平定に全力を傾注しました。
天正18年(1590年)、家康の関東移封とともに、現代につながる都市設計を行ったことや、関ヶ原の合戦後に逃亡中
の石田三成を捕縛したことなどで知られる田中吉政が入封し、大規模な改修を図りました。関ヶ原の合戦後に吉政
が筑後に転封となってからは、本多氏、水野氏、松平氏と、譜代・親藩大名が城主となり明治を迎えます。
元和3年(1617年)に建てられた天守は明治初期に取り壊されましたが、昭和34年に付櫓、井戸櫓とともに天守が
再建されたほか、水堀や空堀、石垣などが往時の姿を今にとどめています。写真は天守と付櫓(左)です。
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桜の咲く吉田城へ(続日本100名城) [東海]

4月6日、続日本100名城が発表されたちょうど日、その続日本100名城の1つに選定された吉田城に行って
きました。

この地には当初、永正2年(1505年)に、今川氏親の命により、牧野古白が現在の豊城神社のある金柑丸のあたりに
築城しました。
その後はたびたび、城主が変わりましたが、天正18年(1590年)に池田輝政が城主となると、城下町を含めて
大改修に着手
しました。ただし、完成する前に、輝政が関ヶ原の合戦の翌年慶長6年(1601年)に姫路に転封になり、それ以降は
小大名が藩主だったため、未完成のまま明治時代を迎えることになります。

現在では、二の丸と三の丸の西側部分は小学校や市役所、南側や東側は公園や美術館となっていますが、本丸と
豊川沿いの部分は石垣や堀、土塁など、旧状がよく残っていて、本丸の西北には復興された鉄櫓があります。
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(日本100名城)長篠城へ [東海]

掛川城のあとは、愛知県新城市にある長篠城へ行ってきました。現存する建物はなく、遺構が多いとは言えま
せんが、日本100名城の一つでもあり、また、誰もが知ってる長篠の戦いの前哨戦として、武田軍と織田・徳川
連合軍との間で激しい攻防があった場所でもあり、一度行ってみたかったんです。

長篠城は永正5年(1508年)、菅沼元成が築きました。菅沼氏は元亀2年(1571年)、武田氏の支配下に入りますが、
元亀4年(1573年)、武田信玄が死亡した直後の間隙をついて、徳川家康が長篠城を奪取し、奥平信昌が城主となります。
そして、武田軍の反攻に備えて大改築しましたが、天正3年(1575年)に武田勝頼に攻められ落城寸前に至りました。
結局、織田・徳川連合軍が長篠の戦いに勝ちましたが、損傷がひどく、天正4年に廃城となりました。
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